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一人暮らしの親を看取るまでの2か月間の記録-お父ちゃんの人生に愛を込めて

プロローグ-一人暮らしの父が入院するまで

突然ですが、6月12日、瀬戸の実家で1人暮らしをしていた父が90歳で他界しました。
享年90歳。

・佐渡ヶ島で生まれて大学進学(上智大学 ドイツ語学科)のため上京。
・母と知人の紹介で結婚し転勤で名古屋に。
・その後、3人の子宝に恵まれ(私は2番目で長女)愛知県瀬戸市に家を構えて50年以上。

小さな頃の記憶はとにかく怖い父で、いつ怒り出すか分からないから、子ども達は父の機嫌を伺いながらドキドキして過ごしていた思い出。

でも、自分が決めたことはやり遂げる強靭な精神力と向上心、ユーモアを持ち、学ぶことが大好きでした。

また、山岳会に所属していたほど山登りが大好きで、晩年も、家から近い低山の猿投山に頻繁に訪れていました。

 

初めてのSOS

そんな父から、「体調が悪いから来て欲しい」とのSOSを受けたのが4月初旬。
父曰く、前の週にショッピングモールで2回転んで肋骨が痛たいとのこと。

これまで、助けてほしいなんて言ったことのない父からの初めてのSOS…これはただ事ではない!
ということで、そこからすぐに実家に帰省。

久しぶりに会った父はじょう舌で一見大丈夫そうだけど、椅子から立ち上がるのも移動するのもふらふらで身体機能は確実に衰えていました。


(これ以上の一人暮らしは難しい…)

今後は施設も視野に入れ、公共サービスを活用しながら行ったり来たりして支えていこうと決め、そこからは生活全般をサポートをする傍ら、介護申認定の申請に行ったり、困りごとを解決するため各種機関に連絡をとったりの日々。

その頃父はよくこんなことを言っていました。
「やる気が起きないんだよ」
「食欲がないんだよ」

特に食欲は顕著で、入院前の数日はお気に入りのコーンスープ以外ほとんど食べられませんでした。

そんな状況の中、父のところに来て1週間目の朝。
父から

「いつもと違う、病院に行きたい」

との訴えがあり発熱。

なんとか支えられながらタクシーに乗りこみ病院の救急外来へ。

そのまま緊急入院となりました。

病院の先生からは
「いつ何があってもおかしくない状態」
との宣告を何度も受けたけれど、そのたびに、強靭な精神力で乗り越えていきました。

でも、4月にSOSを受けてから約2か月後。
帰らぬ人となりました。

個人的には、この2か月間を共にでき、幸いなことに最後の瞬間も看取ることが出来きたので悔いはなしです。

ここからは、主に入院後の父の病状や心に残った出来事、父の死で感じたことを浮かんだままに前後の脈絡なく書いていきます。

長くて読みずらいところもあるかと思いますが、お時間があればご覧ください。

この記録がお父ちゃん(普段はこう呼んでいる)を忘れないための健忘禄と、少しでも親の看取りをする人の参考になれば嬉しいです。

 

 

入院してから急変するまでの健忘禄

お父ちゃんの病状について

最初にお父ちゃんの病状について書いておきます。

私が実家について久しぶりにお父ちゃんを見た時。
「あれ?日に焼けたのかな」
と感じたのですが、よくよく見ると「黄疸」でした。

顔はさほどでもないのですが、身体は本当に黄色くて気になっていました。

でも、この時の私は黄疸の知識もなく、年齢を重ねるとこうなるものなのかなとも思ってしまったんです。

でも、黄疸は重大な疾患が隠れているサイン。

今だったら、その時点で病院に行ったのに…と、これだけは悔やまれます。

また、お父ちゃんは10年ほど前から肝細胞癌を患っていて、その陽子線治療も行っていました。
でも、今回の検査では肝細胞癌の悪化はみられず告げられた病名はこちらの2つ

 

連鎖球菌感染症

連鎖球菌(主に溶連菌)の感染により炎症が全身に広がり高熱や強い倦怠感を発症。
高齢者の場合は、重症化リスクが高く、急速に悪化する「劇症型溶血性レンサ球菌感染症」を引き起こす恐れあり。

※詳しく知りたい方はこちらも参考になります。

骨髄異形成症候群

骨髄の機能に異常が生じ、正常な血液細胞がつくられなくなる病気。
高い確率で急性骨髄性白血病へ移行する特徴があり、「血液のがん」の一つ。

お父ちゃん場合は分類的に「高リスク」で、近い将来急性骨髄性白血病へ移行するだろうというお話でした。

※詳しく知りたい方はこちらも参考になります。

私にとってはどちらも初めて聞く病名。

特に骨髄異形成症候群については入院以降たくさん調べました。

「白血病」というと、ドラマや映画でもよく題材にされますが…
正直、自分とは無縁の世界だと思っていました。

でも、調べれば調べるほど、これはドラマの世界なんかじゃない、現在進行形で多くの人を苦しませている病気なんだって痛いほど分かりました。

また、この病気は進行性で、完治するには骨髄移植しか方法がありません。

ただお父ちゃんの場合、90歳という高齢のため骨髄移植はせず、炎症を抑える抗生剤の点滴、酸素吸入、週1~2回の輸血で症状を和らげる緩和治療を行うことになりました。

 

■お父ちゃんへの告知

担当医から病状の説明があってから、お父ちゃんにどう伝えるかという話しになりました。

私としては
常に学ぶ意欲と向上心を持っていた父なので、希望を砕くような伝え方はしてほしくない。

同席していた兄は
本人にとって心残りがあってはいけないので、しっかりと自分の死に向き合えるよう現状を分かってもらった方が良い。

同じ兄弟でも考え方は違うんだなと思ったのですが、両方ほ話を聞いた担当医からは

「ご家族にした説明をそのまましますね」
とのことで、私達にくれた病状を書いた同じプリントを父に渡しながら、私達にしたのと同じように説明してくれました。

説明のあと、お父ちゃんから出た言葉は

「五分五分だね」

お父ちゃんの言う「五分五分」が何を意味するのか断定できなくて、正直、担当医も私も多少返答に困ったけど、この時の私は、困りながらもお父ちゃんから希望が失われていないことにホッともしていた。

でも、あとから考えてみると、お父ちゃんはきっとこの病気のことを理解していなかったんだよね。

だって、担当医からは厳しいとは言われても「あなたの余命は〇〇カ月ですよ」と断定されてもいない。
わたしのようにスマホでググったりもしない。
だから、病気のことは担当医に言われた以上でも以下でもない。

伝え方って難しいけど、お父ちゃんの場合はこれで良かったのかなと思っています。

「五分五分なんだって」

その後、この言葉はお見舞いの人が来ると、病状の説明と一緒によくお父ちゃんが使う言葉になりました。

この言葉の裏には「五分五分らしいけど、俺はこの戦いに勝ち抜くぞ」っていうお父ちゃんの密かな決意と希望が隠れてた。

それこそ、腹水がたまってなかなかご飯が食べられない時も、「五分五分だからね」って言いながら一口でも二口でも食べていたし、食べることで自分との戦いに勝ち続けていたんだよね。

だから…
なくなる2週間間前に容態が急変して個室に移る直前、お父ちゃんが

「ご飯が食べられないんだよ…」
って声を絞り出して嘆いたときには本当に切なかった。

 

 

一番困ったこと&かけがえのない時間

世間が感じる90歳って、ヨボヨボで認知機能も衰えて

「おじいちゃん、ご飯はもう食べたでしょ!」

のイメージがあると思うんだけど、お父ちゃんは亡くなる直前まで、一人会社だけど有限会社の代表として現役で仕事もしていて、呂律は悪くなっていたものの、認知はとーーってもしっかりしていました。

さすがに取引量は昔に比べてかなり減っていたけど、こうして社会(人)とつながっていること、役立っている実感が、お父ちゃんのパワーの源のひとつだった気がします。

ただ正直…
この2か月間で一番私を悩ませたのもこの仕事。

そして
お父ちゃんとの時間をかけがえのないものしたのもこの仕事でした。

 

私を困らせた仕事の話し

お父ちゃんの仕事は破棄物処理関係で、最後まで取引をしていた会社の創業者とはお父ちゃんが若かりし頃からのご縁。

すでに2代社長が変わっているにも関わらず、そのご縁は次の社長にも引き継がれてここまで懇意にしていただいています。

なので、月に一回は集金を兼ねて創業者に会いに行くのがルーティーンでした。

入院前も4月末にアポを入れていて、「車で行く」と言うので「さすがに車は危ないよ」と話し(お父ちゃんは大丈夫と言い張っていたけど)、別の手段がないものかと考えていました。

さらに万が一に備え、私からも連絡が取れるように取引先の会社の連絡先を聞いてメモ。

でも、そのアポの日が来る前にお父ちゃんは入院となり
ここからが私を悩ませた日々のはじまります…

 

ーお父ちゃんの入院後
アポのキャンセルと父の容態を伝えるため取引先の社長さんに連絡をしたところ…
お父ちゃんの心配をしてくれつつも

「集金どうしますか?」
「A社も関わってくるのでA社にも相談しないと…」
と困った様子…

そして、私の連絡先を聞いたA社の社長さんから電話があり。

「このままだと不渡りになりますよ」
「うちだけじゃなくて他の取引先にも迷惑になりますよ」
と強い口調

事態は思った以上に急を要していました!

昔からお父ちゃんが会社をやっていることは知っていたし、取引先の会社名もよく聞いていました。
でも、詳細までは分からなかったので
この時点で何から手を付けていいのか分からずパニック!

それからお父ちゃんの仕事机を整理すると、4月末〆切の請求書や業務連絡のFAX、これから作らなきゃいけない請求書などを発見!

 

とにかく先ずは、今の取引先にご迷惑がかからないように…

そして何より、ここまで頑張ってきたお父ちゃんの晩節を汚すわけにはいかない!

 

お父ちゃんとのかけがえのない時間

そこからはお父ちゃんがいつ亡くなるかわからない状況の中業務を代行することになります。

毎日病室に郵送物や書類を持ち込んでひとつひとつ確認。

直近の取引以外にも、会社を今後どうするかも問題で、お父ちゃんの意志を尊重しながら、時には時間をかけて説得することもありました。

また、病室では携帯電話が使えたので、面会時間外でも頻繁に連絡を取り合いながら、気づくと入院生活の半分はこんな調子で過ぎていきました。

ー思い返せば
私は18歳で家を出ているので、こんなに長くお父ちゃんと一緒にいて話をしたのは初めて。
もちろん、子どもの頃は「親と子」として一緒にいて話をしているけれど

今回は、「親と子」ではなく、同じ目的を持つ一人の人間同士として話が出来た気がします。

 

正直、もっと早い段階で事業承継なり、解散するなりの準備をしていてくれたらこんなに大変じゃなかったのにと思うけど(苦笑)

結果的に、
この期間があったからこそ、お父ちゃんの人生を知り、一人の人間として改めてリスペクト出来たかけがえのない時間でした。

 

介護認定

お父ちゃんは民間の介護保険入っていました。

その保険は「介護2」になると保険料を払わなくて済むという仕組みだったので、入院前から冗談好きなお父ちゃんとはよく

「介護認定の面談の時にはちょっと症状が悪いふりをして介護2を勝ち取ろう!」

なんて冗談を言い合っていました。

それは入院後も変わらなくて、病室で介護認定の面談が行われた後も

「自分で食べられるって正直に答えちゃったから介護2は難しいかな~自分で食べられないって言えばよかったな~」

なんて、こちらも茶目っ気たっぷりに話していました。

その後、介護認定の結果が出たのがお父ちゃんが亡くなる5日前。

認定は「介護5」でした。

正直想像もしていない数字。

「介護2」または「3」だったら「結果きたよ~」って笑って伝えられたと思うんだけど、この数字を聞いたときのお父ちゃんの気持ちを想像すると笑って報告できない自分がいて…

タイミングがなかったのもあるけど、結局、お父ちゃんに結果を伝えないまま今に至ります。

 

自宅への一時帰宅

「ちょっとでも家に帰れないかな」
入院した当初はよくと言っていたお父ちゃん。

でも、極度の貧血と筋力の低下で自力での起き上がりが困難で寝たきりの状態。
先生が許してくれるかな…

そんな時、病院から紹介されたケースワーカーさんに一時帰宅について相談したところ

先生への確認はもちろん、介護タクシーや酸素ボンベの手配などあれよあれよと進めてくれて
2時間だけですが一時帰宅が実現することになりました。

この一時帰宅が決まってから、病院では車いすに乗る練習をしたそうで、この時車いすに乗って笑顔でピースしている写真を看護師さんが撮って病室に飾ってくれました。

これが入院前のお父ちゃんの笑顔と一緒でとってもいい写真。
看護師さん達の心遣いにも心が暖かくなりました。

そして一時帰宅の前日
「家に行ったらタバコが吸いたい」と言うお父ちゃん。

すると、それを聞いていた看護師さんが

「酸素ボンベしながらタバコを吸うと爆発しちゃうからタバコはダメですよ」
「でも、お酒ならちょっとくらい大丈夫かなー」
っとニヤッとしてくれたので、私もお父ちゃんと顔を見合わせてニヤッとしました。
※決して看護師さんがお酒を推奨しているわけではありません。

 

当日は改めて酸素ボンベの使い方を教えてもらい
千葉から来た兄と共に、介護タクシーで自宅へ。

介護タクシーでは、運転手の人が介助人を兼ねていて、病室から自宅のいつも座っていたソファーまでお父ちゃんを運んでくれました。
もうね、介護タクシーさまさまでした。

そして一時帰宅では、お酒少々と念願のタバコも一本。

もちろん、その数分だけは自己責任で酸素ボンベを隣の部屋に持っていってね。
※まったく全然推奨しませんが。

で、念願のタバコを吸った後のお父ちゃんの感想が
「あんなに吸いたかったのに全然美味しくない」
でした。

そんなこんなで2時間の一時帰宅はあっという間。
無事に病院に戻りました。

翌日の面会時には、看護師さんに「タバコは美味しくなかったよ」と、てへぺろしながら報告しているお父ちゃんがとってもお父ちゃんらしかった。

 

孫達が来てくれた

我が家の子ども達2人がお見舞いにきました。

お見舞いに来てねと伝えたわけではないのに
「この日だったら行ける」
っとそれぞれ自主的に仕事や学校の合間をぬって会いに来てくれました。(嬉しいね)

思い返せば、子ども達が小学生の頃、当時70代だったお父ちゃんが何回か山登りに連れて行ってくれました。
特に思い出深いのは槍ヶ岳と富士山。

娘が来たときはお父ちゃんと会話が出来たけど、残念ながら、息子が来た日は個室に移った後で発語がなくうつらうつらの状態。

でも、孫が来てくれたことは分かったと思います。

そして、瀬戸に一泊出来た娘とは夜遅くまで話をして、翌日はモーニングを食べたり実家周辺を案内しました。

仕事のため滞在時間2時間のハードスケジュールだった息子とは、瀬戸の街並みを一緒に歩きました。

子ども達が来てくれたおかげで、私にとっても良い時間を過ごすことが出来ました。

 

ありがとう

お父ちゃんは晩年「ありがとう」という言葉をよく使っていました。
入院中も先生や看護師さん、その他関わってくれるすべての人、そして「えっ!」と思うような態度をとる医療関係者にも最後は必ず伝えていました。

当たり前かもしれないけど
「ありがとう」がう素直に言えるお父ちゃんは素敵だ。

 

〇○ちゃんが来てくれると安心する

私が病室に行くと「〇〇ちゃん(私の名前)が来てくれると安心する」ってよく言ってくれていました。

私のなかでは宝物の言葉だし、少しでも力になれてるって思えて嬉しかった。

 

自分の母親のこと、弟のこと

お父ちゃんはよく、昔結核で亡くなったお母さんと、同じく、幼い頃に結核で亡くなった弟の話しをしていました。

当時の結核は「不治の病」と言われ致死率が約45%に達する恐ろしい病気。

お母さんとまだ幼かった弟はほぼ同時に病に伏せ、感染拡大のため別々の部屋に隔離されたそうです。最初に亡くなったのは弟で、その数か月後にお母さんが亡くなったそうです。

お父ちゃんは、残されたお母さんが可哀そうだったと何度も言っていました。

当時お父ちゃんは中学生くらい。
きっとその時の体験は、その後のお父ちゃんの生き方に影響していたんだと思います。

 

口をふく紳士

食事のあとや何か飲んだ後はティッシュで口をふく。
誰でもするこの行為。

4人部屋の時は「口が拭きたいな」って言われたら「はいはいはいー」ってティッシュを渡していたんだけど、個室に入って言葉が出なくなってからは

ティッシュを取るしぐさが「口が拭きたい」の合図。

この合図と口を拭くしぐさがとっても紳士的で、なんだか心に残っています。

 

 

最後の2週間-個室から看取りまでの健忘禄

抗生剤と輸血を止めるか続けるか

父ちゃんの入っていた病室は4人部屋。

落ち着かないんじゃないかなと思って「個室にしてもらうね」と言ったんだけど、お金がかかるからいいって。

結果的に、看護師さんの出入りが多い分気づいてもらいやすいし、気軽に看護師さんに声をかけられたので4人部屋で正解だったかな。

ただ、担当医からは危ない状態になった時は個室に移りますと伺っていました。

そして、5月最後の日曜日。

いつもの通り面会に行こうと実家を出ると担当医から連絡がありました。

「今日、また抗生剤を止めてみたんですが熱が出ました」

「ここで抗生剤と輸血を止めて自然な経過(看取り)へ移行するのはどうかと考えています。ご家族の意向はいかがでしょうか?」


というものでした。

理由としては
・すでに長い期間抗生剤を入れているため副作用による身体的な負担(肝臓や腎臓への影響)が心配なこと。

・輸血に関しては、元々根本的な治療ではないのに加え、終末期においては心不全などのリスクが高まること。

また、抗生剤と輸血を止めた場合、1週間くらいでかなり弱っていくでしょうとの説明でした。

これは
・抗生剤と輸血をやめた場合は1週間
・続けた場合は延命出来る

という2者択一です。

かなり迷いました。

私の決断でお父ちゃんの命を縮めていいのか?

でも、ただの延命がお父ちゃんにとって幸せなのか?


迷って迷って迷って

そして正直、自分が翌週どうしてもさいたまに帰らなければいけない用事があったのもあり

「もう少しだけお願い出来ますか」
と先生に伝えて電話を切りました。

 

 

抗生剤と輸血を止める決断

その後病室に行くと、そこには看護師さんと「痛い痛い」と叫ぶ苦痛の表情を浮かべたお父ちゃんがいました。

すぐに駆け寄って「お父ちゃん、痛いね痛いね」ってさすると私の方を見て、それこそ前出の

「ご飯が食べられないんだよ…」
って嘆くんです。

その時のお父ちゃんの心の中は分からないけど、自分の意志や身体を自分でコントロール出来ない無力感みたいなものを感じていたんじゃないかと思う。

そして、つまずきながらも常に自分に課した目標をクリアしてきたお父ちゃんにとって、この感覚は恐怖や絶望だったんじゃないかと。

だとすると、今後抗生剤と輸血を続けていくということは、この先もっと深い恐怖や絶望感を感じさせてしまうことになるんじゃないか…

だからこれを聞いたあとすぐ担当医に

「抗生剤と輸血を止めます」
とお願いしました。

 

個室へ

その後、お父ちゃんも眠ったので病室を出て外で考え事をしていると、しばらくして病院から電話がなりました。


「重篤な状態のため、今から個室に移ります」

この時、何かの数値が低くなったので…
みたいなことを言われたんだけど…何の数値だったかは全く覚えていません。

とにかくすぐに病室へ。

病室に着くと、すでにお父ちゃんは個室に移された後で、看護師さんが荷物を移動している最中でした。
私に気がついた看護師さんがすぐに個室に案内してくれて、先生からは

「会わせたい人がいたら会わせてあげてください」
と言われました。

今の状態を聞くと

今夜が一つの山だとのこと

こからは面会が24時間可能となります。

発語が消えた

個室に移ってからは、それまで話せていた父の発語が消えました。
今まではある程度スムーズに言葉のキャッチボールが出来ていたのに急にです。

話そうと口を動かしているんだけど声にならない。

もちろん、これまで一緒にいたから、何を言いたいのかは大体わかる。
でも大体なんですよ。

言葉が理解出来ないってこんなにも戸惑うものなんですね。

でも、お父ちゃんはもっともっともっと、伝わらないもどかしさを感じていたよね。
言葉って動物にはなくて人間にだけに与えられた能力。
この言葉があるからお互いを深く分かり合えることが出来るし、時としてとんでもなく悲しい気持ちにさせることもある

改めて、言葉の力って凄いんだなと感じました。

そしてお父ちゃんは個室に移ってからの最初の山を乗り越えて、その後2週間頑張ってくれました。

 

ご飯が出ないんだよ

個室に移ってからは、声をかけてもあきらかに反応が薄くなって、1日のうち眠っている時間が増えました。

相変わらす言葉は声にならないけど。

お父ちゃんが話そうとする素振りがみえた時は、その瞬間に全集中しました。

話している言葉を理解しようとするのはもちろん、表情や身振り手振り、話の中でわずかに聞き取れた単語があれば、以前の会話の中で同じ単語が出たときの話の流れを思い起こして何を言いたいのかを予測する。

これかなと思ったら、「〇〇なの?」とその理解を確認する。

もちろん、確認したことが違うことも少なくなかったけど、違う時には(違うんだよな~)って表情をしてくれるので、「違うんだね」って言って「じゃあ△△かな?」って何度でも確認していました。

そんな中、はっきり分かった文脈もいくつかありました。

その中のひとつが

「ご飯が出ないんだよ」
これは、個室に入った翌日からご飯が出なくなり(もちろん、病院からの確認ありです)、3日くらい経った頃に看護師さんと兄も交えて話している時に出た言葉。

はっきりと聞き取れた瞬間すーーごく嬉しかったし、言葉が分かるって一気に心の距離を縮めるんだと実感しました。

また、その2日後にも。

「5日もご飯が出てないんだよ」

と言っていて、聞き取れて嬉しいのはもちろん
最後まで認知能力が落ちないお父ちゃんの凄さも感じた瞬間でした。

思い返せば、個室に入る前まではお父ちゃんの希望で毎日新聞を差し入れていて、その新聞で日付を確認してもんね。

ただ、それと同時にちょっともやっとしたこともありました。

それは

「ご飯が出ないんだよ」の後に看護師さんがお父ちゃんに言った言葉。

「分かってるんだ」
「食欲が出るのは良いことだよ」
「でも誤嚥とかあると危ないからね」

そして兄も同様に

「ゼリーとかダメなんですか?」
「何か食べれれば満足するするかも」

etc.次から次に飛び出す※「お決まりの12の型」
※親業で聞いているつもりが実は聞いていない言葉がけを12の型に分けたもの。

ちょっと待って!と。

お父ちゃんは「食べることが病気に勝つことだ」と分かっていて、食欲がないと言いながらも頑張って頑張って少しでも食べてきたんだよ。

ご飯がでないってことは
お父ちゃんにとっては勝負さえさせてもらえない環境なの!

それを、言葉のみを捉えて、まるでお父ちゃんが

ただの「ご飯が食べたいけど食べさせてもらえない人」「とにかく何か食べたい人」みたいに思われたのが嫌だったんだよね。

もちろん、悪気がないし良かれと思って言っているのも分かってる。

でも…
最後なんだから、お父ちゃんが本当に言いたいこと(欲求)を分かろうとしてほしかったなと。

だって、私の耳にはお父ちゃんの言葉って

「回復したい」「元気になりたい」
だから食べたいんだって聞こえたんだもん。


まあ、今となっては真意は分からないんだけど。
「聞く」って本当に難しい。

 

 

死の前日の看護師さんからの電話

個室に入ってから2週間近く。
お父ちゃんは小康状態を続けていました。

この感じだともうちょっと頑張ってくれるかな…と思い、一日だけさいたまに戻ることにしました。

さいたまに帰ったのはお父ちゃんが亡くなる前日。
お父ちゃんの病室に寄ってから、夕方5時くらいに最寄りの駅を出発。

名古屋、東京、そして高崎線に乗っている時に病院から電話が鳴りました。

まさか!
と思ってすぐに電話を取ると病棟の看護師さんからで

「バイタルがかなり下がってきたのでもうすぐだと思います。早めにお伝えしておこうと思い連絡しました。」とのこと。

時計をみると21時少し前。
今から東京駅に戻っても最終には間に合いません。

とにかく、私が行くまでもってほしいと祈りながら翌朝すぐに瀬戸に戻りました。

翌朝病室についたとき
生きていてくれたお父ちゃんを見て心からホッとしました。

これはお父ちゃんが亡くなった後に聞いたのですが

前日に看護師さんの電話について、本当はまだすぐに連絡する数値ではなかったそうなんです。
でも、私がさいたまに戻ることを知った看護師さんが担当看護師さんに「早めに連絡したほうがいいよ」とし助言してくれていたそうです。

あの連絡がなかったらお父ちゃんの死に目に会えなかったかと思うと、親身になってくれた看護師さんに感謝しかありません。

 

呼吸が変わった

お父ちゃんが亡くなる当日。
呼吸にあきらかな変化がありました。

下顎呼吸です。

身体全体でゼーゼーと呼吸しているように見えて見た目は大変そう。

だけど、個室に入ってから一番穏やかな顔にもみえました。
(個室に入ってからは苦悩の表情が多かったからね)

また、ネットなどで調べると、この呼吸が現れると「数時間〜数日」で亡くなることが多いとの記事も多かったので

いよいよなのかな…

と覚悟をしつつ、心を無にして、今の状況を家族に連絡するために病棟を出ました。

家族への連絡がおわり、しばらくしてボーっとしている時、病棟から連絡が入りました。

そこには緊迫する看護師さんの声。

「心拍が30台まで下がりました!どこにいらっしゃいますか?!」

「近くにいます!すぐ行きます!」
そう答えて電話を切り急いで病室に向かいました。

 

最後の瞬間お父ちゃんの心拍が上がった

病室の扉を開けたとき、真っ先に飛び込んできたのはベッドサイドモニターの心拍数を示す「30」(台)の赤い数字。

そして、その数字がさらに下降していく。
まさに命が尽きようとしている瞬間でした。

 

すぐにお父ちゃんに駆け寄って耳元で

「お父ちゃん、〇〇(自分の名前)来たよ」
「〇〇いるよ」
「お父ちゃんここまですごかったね」
「お父ちゃんかっこいいよ」
「〇〇いるからね」
っていつもよりちょっと大きめの声で語りかけました。

すると忘れもしない、看護師さんが

(心拍)70まで上がったよ、待ってたんだね」
って。

そう!下がる一方だった心拍が一気に「70」まで上がったんです!

 

でも次の瞬間…
階段をかけ落ちるみたいに一気に「0」になりました。

よくドラマなんかで、ピッピッピッって音だった心拍が亡くなるとピ―――――――って音になるでしょ。

本当にそのまま。

その間、1分もなかったんじゃないかと思います。

人は亡くなる直前、たとえ昏睡状態であっても耳だけは最後まで聞こえるというけれど、それは本当なんだね

その後、死亡確認をお願いするため看護師さんが当直の先生を呼びに行ってくれました。

その間、お父ちゃんの頬を触りながら「がんばったね」って話しかけてたんだけど、暖かかった頬が、どんどん冷めていきました。

そして
6月12日20時22分
先生によって亡くなったことが確認されました。

個室に移って「今夜が山」と言われてから約2週間。

途中、担当医からは「経験上、想像を絶するところで頑張っておられる」と評されるほど心身ともに強靭だったお父ちゃん。

享年90歳
よく頑張ったね。
一人の人間として尊敬しています

最後に一緒にいてくれてありがとう。

大好きだよ。

 

最後に

以上、ここまで長い文章をお読みいただきありがとうございました。
もちろん、ここに書いていない事も感情もまだまだあるけれど、こうして思いつくまま書けたことでひと区切りつけた気がします

この記録がお父ちゃんを忘れないための健忘禄と、少しでも親の看取りをする人の参考になれば嬉しいです。

 

最後に-受講生さんのご理解とご協力に感謝

お父ちゃんからのSOSOがあった時、まさかこんなに早く逝ってしまうなんて思わず…
進行中の講座については、対面は延期、オンラインは瀬戸からつなごうと考えていました。

でも、実際は難しく‥
一部のオンライブッククラブ以外はすべて延期させていただきました。

受講生のみなさまにおかれましては、この期間ご理解・ご協力いただき誠にありがとうございました。

ここからは、いつもの親業の日常です。

  • この記事を書いた人

生駒 章子

親の学校プロジェクトの代表。元ガミガミママで今は親教育の専門家。
自身の原体験から、子育て支援ではなく「親支援」にこだわって活動中。趣味は読書(マンガ)

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